パブロ・ピカソ

パブロ・ピカソ

私は対象を見たままにではなく、私が思うように描くのだ。

 

人はだれしも絵画を理解しようとする。それならなぜ小鳥の歌を理解しようとしないのだろう。

 

すべては奇跡だ。例えば、お風呂に入ったとき、あなたがお湯に溶けてしまわないことだって。

 

絵の玄人なんていうものは、絵描きに対してろくなアドバイスをしない。

 

アクシデントが起きると、人はそれを変えようとするが、人には変えることが出来ない。アクシデントが人の内面を明らかにするだけだ。

 

私はいつも自分のできないことをしている。そうすればできるようになるからだ

 

人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ。

 

画家は、労働者が働くように、勉強しなければならない。

 

いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。

 

コンピューターなんて役に立たない。だって、答を出すだけなんだから。

 

明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。

 

芸術家を何とお思いか。画家なら目、音楽家なら耳、詩人であれば心に抒情、ボクサーなら筋肉のほかに何も持たない愚か者とでもお思いか。それはとんでもない勘違い。芸術家はそれだけでなく、政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象に沿って自らを形作っている。

 

仕事は人間に必要だ。だから人は目覚まし時計を発明した。

 

若くなるには、時間がかかる。

 

芸術作品は、部屋を飾るためにあるのではない。敵との闘争における武器なのだ。

 

すべてのものは、かぎられた量しかない。とくに幸福は。

 

私は大金を持った貧乏人のように暮らしたい。

 

他人を模写するのは必要なことである。しかし、自分を模写するのは哀れなものだ。

 

女の顔はキャンバスだ。毎日女は少しだけ若い自画像をそこに描いている。

 

ひらめきは、自分で呼び込めるものではない。わたしにできるのは、ひらめきを形にすることだけだ。

 

大切なことは、熱狂的状況をつくり出すことだ。

 

芸術は悲しみと苦しみから生まれる。

 

絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ。

 

自分には過去も未来もない。ただ現在に生きようが為に絵を描くのである。

 

回教徒が寺院に入るとき靴を脱ぐように、私は仕事中、ドアの外に肉体を置いてくる。

 

芸術家の資格は、智慧と注意と誠実と意志のみである。

 

誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ。

 

冒険こそが、わたしの存在理由である。

 

今は、もう感動はない。だから、感想が湧くのである。感動には、叫びはあるだろうが、言葉はない。

 

ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ。

 

私は捜し求めない。見出すのだ。

 

できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である。

 

子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。

 

昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。修道士になれば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった。

 

芸術とは、われわれに真実を悟らせてくれる嘘である。

 

想像できることは、すべて現実なのだ。

 

芸術は日々の生活のほこりを、魂から洗い流してくれる。

 

私はいつも自分のできないことをしている。そうすればそのやり方を学べるからだ。

 

太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる。

 

優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。

 

人生で最もすばらしい癒し、それが愛なのだ。