カール・ハインリッヒ・マルクス

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役に立つ物が増え過ぎると、役に立たない者が増え過ぎる。

 

豊かな人間とは、自身が富であるような人間のことであって、富を持つ人間のことではない。

 

人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない。

 

哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである。

 

出てけ、失せろ。最期の言葉なんてものは、生きてるうちに言いたいことを全部言わなかったバカ者どもが口にするものだ。

 

歴史は繰り返す。最初は悲劇として、二度目は笑劇(しょうげき)として、過去の亡霊を呼び出し、その由緒ある衣装に身を包み、借りものの言葉を演じる。

 

プロレタリアートとは、自分の生活の維持する費用を、ただ自分の労働力を得ることによってのみ得ていて、あらゆる種類の資本の利潤からは得ていない社会階級である。 その幸福と不幸、生と死、その存在全体は、労働の需要、景気の変動、どう決まるかわからない競争の結果などにかかっている。

 

人間は労働を通して社会的存在になる。社会的存在とは、自分一人の世界の中ではなく、人々との交流の中に生きているということである。

 

宗教は抑圧された生物の嘆息であり、また、それが魂なき状態の心情であると等しく、無情の世界の感情である。つまり、それは民衆の阿片である。

 

人間は働けば働くほど、その生産したもの中に生命を奪われていく。

 

人間にとって最大の幸福は、「自分を生かせる仕事に巡り合うこと」ではないでしょうか。 人は誰しも社会で認められ、社会に役立ちたいと願っている、社会的な生き物です。社会から切り離された“自我”など有り得ないし、社会と無関係に生きることなど何人たりとも出来ない。どんな人間も、多かれ少なかれ、社会に依存しながら生きているものです。

 

プロレタリアにおける最大の不幸は何か?それは生存は保証されず、生産手段をもたない裸の存在であり、その代わり売るものは唯一つ、“労働力”であり、生きるも死ぬも、これにすべてがかかっている。

 

共産主義は完成した自然主義として人間主義であり、完成した人間主義として自然主義である。

 

もし、事物の現象形態と本質とが直接に一致するならば、一切の科学は不要である。

 

人間が集団で生きてゆくにあたってもっとも肝心なことは、ひとりひとりの人間の柔軟な感性と個性に対応できるようなシステムが保証されていることである。そして同時に大切なのは、社会に対してほとんど「能力」を発揮できない人にも、そういうこととはまったく無関係に、必要とするものが十分に与えられることなのである。

 

賃上げは、奴隷の報酬改善以外のなにものでもないだろうし、 労働者にとっても、労働にとっても、その人間的使命や品位をかちとったことにはならないだろう。

 

汝の道を行け、しかして、あとは人の語るにまかせよ。

 

学問には平坦な大道はありません。そして、学問の険しい坂道をよじ登る労苦を厭わない者にのみ、その明るい頂上にたどり着く見込みがあるのです。

 

労働の疎外は、第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないで、かえって否定され、幸福と感ぜずに不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展せず、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は荒廃するということである。だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。彼の労働は自発的なものではなく、強いられたもの、強制労働である。したがって、労働は欲求を満足させるものではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。

 

一般に労働の目的が富の増大である限り、私はあえていうが、労働そのものは有害であり、破滅的である。