石原裕次郎

石原裕次郎

僕たちが子供のころは、無形のものから有形のものをどんどん生んでいった。物がないんだから、工夫するしかないわけ。 ところが、いまの世の中は、お金さえ出せば何でも手に入る。だからいまのガキは、工夫をしないよね。知恵を絞ることをしない。 身体も軟弱で、鉄棒して落っこちれば腕を折っちまう。創造性もなけりゃ、体力もない。昔のガキは、いかに廃物利用して物を作っていくかという発想と知恵においては、いまの大学生や大人たちよりはるかに進んでいたと思う

 

人の悪口は、絶対に口にするな。人にしてあげたことは、すぐ忘れろ。人にしてもらったことは、生涯忘れるな。

 

動物には動物の距離感があるように人間同士がうまくやっていける距離感を、僕ら団塊の世代はすし詰め教室で学びました。

 

デビューしたころは、ロケーションに行って、「おい、裕次郎、こっち向け」なんて、行儀悪い見物人から言われると、頭にきて、よくブン殴ったものだ。(略)もし「石原裕次郎」が芸名であったら、たぶん腹は立たなかったろうと思う。 本名だから、呼び捨てにされると頭にくる。 僕を呼び捨てにできるのは、そのころすでに親父は亡くなっていたから、この世の中で、おふくろと兄貴の二人しかいないわけだ。たとえ時の総理でも、俺を呼び捨てにしたら許さない-当時の僕は、それぐらいの気構えがあった

 

兄貴は、僕の尊敬する人物の一人だ。 小さいときから、そうだった。 遊びのことでも、スポーツのことでも、試験勉強のやり方でも、兄貴の言うとおりやれば、まず間違いないと思っていた。こうなると、もう一種の信仰だね。だから、あいつの言うことはよく訊いた。いまでもそうだ

 

兄貴は優等生だから、親父に手をあげられることは、まずなかった。 殴られ役は、僕が一手に引き受けていた。いや、親父は殴るだけじゃないんだ。水を張ったバケツを両手に持って、庭に立たされるんだから。 真冬-それも、夜だぜ。雪がチラチラ降ってさ。身体は寒くて震えるわ、足は感覚が無くなるわ……。 でも、親父は僕が立っている間、晩飯を食べないで、じっと待っているんだよ。何時間でも。それでお仕置きが解除になったところで晩メシになるんだけど、その時間には、兄貴もおふくろもみんな寝ているんだ。そうすると、親父は、僕と一緒に冷たくなったご飯を食べるんだ。(親父、偉いな)と、このとき思った。 怖い親父だけど、こういう親父の姿を見て、親しみというか、(近づけたな)ってね。そんなことを感じたものだ

 

僕はまだ若くて単純かもしれないけどね。自分で納得のいかないことはしたくないよ。

 

学校VS学校-。これが、僕らが高校生のころのケンカだった。(略)学校対学校だから、級友の誰もが愛校精神に富んでいた。何より友情を重んじた。先生も、崇めた。そういう意味で、学校VS学校のケンカというと、大げさに聞こえるかもしれないけど、少なくとも僕たちの精神は、非常に健康的だったということは言えると思う

 

大きい枝に、小さく咲く花が好きだ。たとえば、桜。パッと咲いて、パッと散る。武士のように爽やかで、散りながら花びらが舞う姿は、まさに花吹雪と呼ぶにふさわしい美しさがある美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。

 

確かに、6・3・3制の義務教育という制度は、占領統治下ではそれなりに意味があったと思う。だけど、この制度は受験戦争を生み、教師をマシン化させるという弊害を引き起こした。いまの日本の現状を考えれば、やはり6・6制という昔の制度に戻すのがいいと思う。そうすれば受験制度もなくなり、教師も血が通った教育ができるだろう。 戦後かなりの時間がたって、義務教育というものをありがたがる時代は去ったのではないか。 少なくとも僕は、そう思っているんだ

 

僕らがちっちゃいときは、家族四人で風呂に入っていた。「お母さんもおいで」なんて、親父が呼んでさ。おふくろが途中から入ってくるんだ。 だから、いま当時を振り返ると、すごく微笑ましくてね。「よかったな」というイメージしか残っていないんだ

 

人が何と言おうが、自分じゃ不良とは思っていなかったね。友達が何人か集まってワーワーやるのが楽しいわけで、自分じゃ、健康的で、模範的な学生だと思っていた