芥川龍之介

芥川龍之介

人生は地獄よりも地獄的である。

 

恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものである。

 

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。

 

人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは、暴力よりほかにあるはずはない。

 

天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心地のよい名声」を与えられることである。

 

軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう。

 

人間は時として、満たされるか満たされないかわからない欲望のために一生を捧げてしまう。その愚を笑う人は、つまるところ、人生に対する路傍の人に過ぎない。

 

強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。

 

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈さえつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。

 

私は不幸にも知っている。時には嘘によるほか語られぬ真実もあることを。

 

他を嘲(あざけ)るものは同時にまた他に嘲られることを恐れるものである。

 

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。

 

他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

 

運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑に生まれたものではない。

 

あなた方のお母さんを慈しみ愛しなさい。でもその母への愛ゆえに、自分の意志を曲げてはいけない。そうすることが後に、あなた方のお母さんを幸せにすることなのだから。

 

あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。最も賢い処世術は、社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をすることである。最も賢い生活は、一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。

 

阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。

 

矜誇、愛欲、疑惑、あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまた、おそらくはあらゆる徳も。

 

我々の生活に必要な思想は、三千年前に尽きたかもしれない。我々は唯古い薪に、新しい炎を加えるだけであろう。

 

我々人間の特色は、神の決して犯さない過失を犯すということである。

 

 最も賢い処世術は、社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

 

懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑はぬという信念の上に立つ者である。

 

わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

 

好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。

 

完全に自己を告白することは、何びとにも出来ることではない。同時にまた、自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。

 

芸術のための芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に墜ちる。人生のための芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる。

 

道徳は常に古着である。

 

人間の心には、互いに矛盾したふたつの感情がある。誰でも他人の不幸に同情しないものはない。ところが、その不幸を切り抜けてよくなると、なんとなく物足りなくて、少し誇張して言えば、もう一度同じ不幸に陥れてみたいような気持になる。

 

成すことは必ずしも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少なくとも成すに足ることを欲するのは。

 

結婚は性欲を調節する事には有効であるが、恋愛を調節する事には有効ではない。

 

女人は我々男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

 

古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは、いかに賭博の人生に酷似しているかを示すものである。

 

民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我々自身も亦民衆であることを発見するのはともかくも誇るに足ることである。

 

人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。

 

人生の悲劇の第一幕は、親子となったことに始まっている。

 

どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。

 

我々はしたいことの出来るものではない。ただ、出来ることをするものである。

 

幸福とは幸福を問題にしない時をいう。