オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルド

子供は最初は親を愛するが、やがて親を裁くようになる。許すことはまずめったにない。

 

流行とはひとつの醜さの形であり、とても人を疲れさせるので、三か月ごとに変える必要がある。

 

他人に何を読むべきかを教えることは、たいてい無用であるか有害かのどちらかだ。なぜなら文学の理解は、気質の問題であって、教える問題ではないのだから。

 

善人はこの世で多くの害をなす。彼らがなす最大の害は、人びとを善人と悪人に分けてしまうことだ。

 

男は女の最初の恋人になりたがるが、女は男の最後の恋人になりたがる。

 

人生には選ばなければならない瞬間がある。自分自身の人生を充分に、完全に、徹底的に生きるか、社会が偽善から要求する偽の、浅薄な、堕落した人生をだらだらと続けるかの、どちらかを。

 

我々男が女を愛するときに、女の弱さも、あやまちも、不完全さも、ちゃんと知りつくした上で愛するんだ。いや、それだからこそいっそう愛するのかもしれない。愛を必要とするのかもしれない。愛を必要とするのは完全な人間じゃない。不完全な人間こそ、愛を必要とするのだ。

 

老人はあらゆる事を信じる。中年はあらゆる事を疑う。青年はあらゆる事を知っている。

 

人生は複雑じゃない。私たちの方が複雑だ。人生はシンプルで、シンプルなことが正しいことなんだ。

 

本当に魅力的な人間には、2種類しかない。何もかも知り尽くしている人間か、まったく何も知らぬ人間かのどちらかである。

 

すべての良い決心には、宿命的な欠陥がある。すなわちいつもそれが早すぎるということだ。

 

人は自分の最も悪い習慣でさえ失うことを残念がる。おそらく、最も残念がるだろう。なぜなら、それこそがその人の人格の本質的な部分であるからだ。

 

女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。男に欠点が多ければ多いほど、女は何もかも許してくれる。我々の知性さえもだ。

 

経験とは、誰もが自分の過ちにつける名前のことだ。

 

女が再婚する場合、それは先夫を嫌っていたからだ。男が再婚する場合、それは先妻を熱愛していたからだ。

 

戦争では強者が弱者という奴隷を、平和では富者が貧者という奴隷をつくる。

 

現代の道徳は、現代の基準を受け入れる点にある。いやしくも教養のある人間にとって、現代の基準を受け入れるということは、愚劣きわまる不道徳のひとつの形式だと思う。

 

人々が私に賛成するときはいつも、私は自分が間違っているに違いないと感じる。

 

ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である。

 

教育は結構なものである。しかしいつも忘れてはならない。知る価値のあるものは、すべて教えられないものだということを。

 

文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。ジャーナリズムは読むに耐えない。文学は読む人がいない。それがすべてだ。

 

社会は個人に対して極刑を加える権利を持つかのように揮うが、社会は浅薄きわまりない悪徳をもっていて、己の行う事を自覚する力がない。

 

生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである。

 

私たちは、不必要なものだけが必需品である時代に生きている。

 

わずかばかりの誠実さは危険であり、度を越した誠実さは致命的である。

 

人が恋をする時、それはまず、自己を欺くことによって始まり、また、他人を欺くことによって終わる。

 

われわれは女性を解放したが、女のほうは依然として主人を捜している奴隷だ。

 

一貫性というのは、想像力を欠いた人間の最後のよりどころである。

 

誰でも友人の悩みには共感を寄せることができる。しかし友人の成功に共感を寄せるには優れた資質が必要だ。

 

誰でも友人の悩みには共感を寄せることができる。しかし友人の成功に共感を寄せるには優れた資質が必要だ。

 

他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並みである。