苫米地英人

苫米地

人間は本来我慢などしてはいけないのです。努力に努力を重ねてなにかを得るという行為には、本質的にはゴールに向かっていく楽しみがありますから我慢とは言いません。ただただ忍耐を強いられているだけ、これが我慢です。

 

釈迦の縁起の思想は、葬式はやるな、あの世はない、神はいない、魂はないという具合に、無神論といえるもの。

 

上座部や日本の禅宗は、どちらかと言うと自力の仏教です。他力を重視したのが浄土宗や浄土真宗です。法然は、「南無阿弥陀仏」という念仏をたくさん唱えれば、極楽往生できると説き、親鸞は念仏は1回唱えればいいし唱えなくてもいいという絶対他力を説いた。

 

縁起とは「縁」によって「起」こると書きますが、単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。川の水で考えてみましょう。川からコップで水をすくったとします。この水が存在するためには、上流から流れてくる水も下流へと流れていった水も必要でした。コップの水だけではここに存在しえません。水だけではありません、川底の小石も必要ですし、川の流れを生み出す地形が必要です。地形が存在するには地球が必要です。地球があるためには宇宙が必要です。コップいっぱいの水がそこに存在するために宇宙がすべて必要です。これが縁起です。

 

嫌な仕事、やりたくない仕事にしがみついても、いいことは何もありません。お客さんにも迷惑だし、雇い主も迷惑です。

 

女性は基本的に人間関係の整理が苦手かもしれない、それは儒教教育が原因、「女は考えるな。情動的心地よさのみを求めなさい」と教育されているから、仲良くすることが絶対にいいことだと考えていた。

 

「この世に完全性はない」。釈迦は数学も物理学も用いず、瞑想という思考実験でそれを解明してみせました。宗教で量子論と同じ結論に至ったのは、仏教しかありません。

 

働かないのも正しいのです。したがって、ニートも正しいということになります。そもそも、働かないのは悪いことだと言う人に質問したいのは「あなたはなぜ働くのですか?」ということです。働かないと生きていけないからというのなら納得できます。けれども、だとしたら働かなくても生きていける環境にある人が働く理由はないでしょう。

 

日本は勤勉さを評価するでしょ。でも、好きでもないことを一生懸命やるのは、勤勉とは言いません。単なる奴隷です。

 

「今まで何一つ、うまくいかなかった。だから…」という考え方をやめましょう。それは過去の出来ごとに対して、今のあなたがしている解釈に過ぎません。そんな事で、あなたの未来を制御する必要など、どこにもないのです。

 

言葉は必ずイメージを想起させ、イメージは必ず情動を引っ張り出す。それが言葉が本来持っている強さです。

 

『それを信じれば、いいことがありますよ』と人々の脳に働きかけ、なんら科学的に根拠のないことを唯一の価値であるかのように受け入れさせてしまうものは、すべて宗教だということです。その意味では、資本主義もマルクス主義も宗教現象です。なぜなら、資本主義とはお金という完全情報に対して憧れを抱き、そこに不変の価値を見いだす脳内現象だからです。

 

何が正しくないのか突き詰めて考えると、その基準そのものが空だと見えてきます。「唯一正しいこと」を追求すると、キリスト教とイスラム教の喧嘩になってしまいます。釈迦は、「正しいものは何もない」と言っているのですから、論理的に考えると矛盾しています。

 

自分とはなんぞやなんていっていくら指さしても、それは全部おまえとの関係、今この空間との関係という縁起の発想になってくるんです。全ては片一方だけでは成り立たない。だから人間は宇宙にとっての重要な役割になる。縁起の中でこちら側の対象として非常に重要な役割を果たせるんです。人間は情報処理マシーンです。情報処理マシーンのレベルがどんどんあがっていけば、対象物もレベルが上がっていくでしょ?人間存在がその知的能力を生かせば生かすほど、精神レベルを上げれば上げる程、対象がいいものに変わっていくんです。

 

子供の幸せを願うなら「東大に入学してほしい」ではなく、「自分一人で生き抜けるように成長してほしい」の方がいい。

 

座禅は自力的な修行ですが、そもそもその人が座禅という修行法を知ったのは、他の誰かによるものでしょうから、完全な自力はありえないと考えることもできます。その答えは簡単で、釈迦の教えは「自と他の差はない」と知ることなのです。それが悟りの境地です。

 

儒教における学問の目標は、博学になることである。また、儒教においては、聖人(人間の理想像)の言動を模倣することが是とされており、独創性や個性などは求められていない。このことは、試験の本質が暗記力を問うものになるという必然をもたらす。

 

本来人間には、進化の過程で人を殺すことが好きな遺伝子は淘汰されて残っていません。それが残っていたとしたら、人類は殺し合いをつづけた揚げ句、はるか昔に滅亡していました。そもそも種は、殺すのも殺されるのも嫌だ、という情報が組み込まれているからこそ、すべての種が保存されているわけです。

 

大半の人が、自分のゴールを「現状維持」に据えています。現状維持のことを専門用語で「ホメオスタシス」といいますが、これはすべての生物に備わっている能力です。この「現状維持」という能力のせいで、新しいことをやろうとする気持ちが抑えられてしまう。現状の外側にゴールを設定した人だけが、本当の意味での進化が可能となる。現状の外側にゴールを見つける。一見、難しいように聞こえますが、実は簡単です。現状をすべて否定すればいい。今、自分が正しいと思っていることをすべて疑ってみるんです。

 

間違えてならないのは、行動することではなく、自己イメージをつくることが先にくるという点です。

 

思考スピードを上げるには、情報を増やすのではなく、それまで見えなかったものが見えるよう、思考レベルを変えればいいのです。ほとんどの人は、自分の意識と自分が快適だと感じる現状(コンフォート・ゾーン)の中にとどまったまま、日々の生活を完結して生きています。そのため、必然的に現状強化に役立つもの以外は見えなくなっています。このコンフォート・ゾーンをあえてずらしてみる。具体的にいうと、昨日までの延長では絶対に達成できない未来の目標を決めるのです。

 

おいしいものを食べると、「おいしい」ことにとらわれます。すると、食に対する煩悩が強くなります。そうなると、抽象度は上がりません。煩悩は、抽象度の高い思考を邪魔するのです。これは食欲、睡眠欲、性欲すべてにいえます。

 

あらゆる不幸は煩悩を制御できないことで起こっている。逆に、煩悩を大きくすることで、個人も社会も幸せに向かうことができる。「大きくする」とは「私」の抽象度を上げること。例えば、お金持ちになりたいのであれば、「自分だけ」から「自分を含めた自分の周りの人たち」など煩悩の主体を広げていく。

 

私たちが獲得するのは、最初は断片的なひとつひとつの知識です。その断片的な知識が蓄積されていくと、そのうちに知識同士がひとまとまりになってつながり、ひとつの認識になります。

 

いってみれば、釈迦は、不完全性定理を主張したようなものです。神を必要とする理由のひとつは、部分情報である人間が完全情報に憧れることです。そこで、釈迦が『完全情報はこの世にありません』といえば、憧れは消えてしまいます。また、死を恐怖する人に対しては、『死んだら、その怖がっている君はいないんだよ』の一言で終わりです。すると、人間は、幻想から徹底的に解放されていきます。それを、釈迦は『未来も幻想、過去も幻想』と教えたのです。

 

気功で病気を治すことができるのは事実です。科学的に説明がつかないだけで、ありえないこととは言えない。

 

学力などの能力は、いわゆる遺伝よりも、むしろその子が育つ環境に左右される。