
宇宙は数学という言語で書かれている。そしてその文字は三角形であり、円であり、その他の幾何学図形である。これがなかったら、宇宙の言葉は人間にはひとことも理解できない。これがなかったら、人は暗い迷路をたださまようばかりである。
言葉や属性こそ、物事の本質に一致すべきであり、逆に本質を言葉に従わせるべきではない。というのは、最初に事物が存在し、言葉はその後に従うものだからである。
我々は人々に何も教えることができない。我々ができるのは、人々の中にあるものを自分で発見する手伝いをすることだけである。
数学は神が宇宙を書いたアルファベットだ。
科学はこの宇宙という名の分厚い本の中に書かれていて、私たちの目の前に開かれている。しかし、そこに使われている言語を学び文字を解釈しなければ、誰もその内容を理解できない。その言語こそは数学である
私は、何も学ぶべきものがないほど愚かな人に会ったことはない。
責任を取れない人間は、科学者であってはならない
それでも地球は動いている。
堕落した自由人というのは最悪の奴隷である
私はあまりに深く星を愛しているがゆえに、夜を恐れたことはない。
哲学は我々の目の前にひろげられているこの巨大な書物、つまり宇宙に書かれている。
君は、報告を信じるだけで、自分で確めないのか結果にはすべて原因がある
あらゆる真実は一度発見されれば理解するのは容易だ。肝心なのは真実を発見することだ。
私はあまりに深く星を愛しているがゆえに、夜を怖いと思ったことがない。
懐疑は発明の父である。
数学は、科学へとつながる鍵とドアである
学者先生はしきりに「それゆえ」という言葉をお使いになるが、なんで「それゆえ」なんだか、俗人にはさっぱりわからない。なんだか、えらそうなことばでごまかしているようだ。
どうして君は他人の報告を信じるばかりで、自分の眼で観察したり見たりしなかったのですか。
人にものを教えることはできない。みずから気づく手助けができるだけだ。
自然は、我々の知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを、最高度の容易さと単純さとで行なっているのです。
結果にはすべて原因がある。
感覚が役に立たないとき、理性が役に立ち始めるのだ。
聖書は我々にいかに天へ行くかを教える。いかに諸天体が動くかを教えるのではない。
自然は我々の知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを、最高度の容易さと単純さで行っているのだ。
書物よりも見たり聞いたりすること、地位よりも経験が第一の教育者だ。
どんな真実も、発見してしまえば誰でも簡単に理解できる。大切なのは、発見することなのだ。
見えないと始まらない。見ようとしないと始まらない。
物事には見えないものがある。それこそが重要かもしれない。